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Monthly Column

ーリコーダーの記憶と共にー

『春原さんのうた』 上映:3月12日(土)〜 3月24日(木)

2021年 日本 2時間 監督:杉田協士 出演:荒木知佳/新部聖子/金子岳憲/伊東沙保

子どもの頃、息を吹くと、ポーッというなんとも柔らかく丸い感じの音を出してくれるリコーダーがとても好きだった。ただ息を吹きかけるだけでも音がして、指で穴を塞ぐことで音が変わることが、不思議で楽しかった。一生懸命吹いていると管からぽたっと滴が落ちてくることに、初めて遭遇した時は本当にびっくりした。滴が落ちた底の穴から口先に繋がる管の中を繁々と眺めた。それが自分の息なんだと気づくまでに少し時間がかかった。息が音になる事の不思議と、息が大きな水滴になって流れてくるという現象は、子どもの私には魔法に近い出来事だった。 何十年も思い出していなかった感覚が、フワッと脳裏によぎるから映画体験というのは面白いのだと思う。『春原さんのうた』でリコーダーの音が心地よく耳に届いた時にそんなことを思い出し、加えてこの映画が浮かび上がらせる日常の表現が、まさしくこの息と水滴に重なった。

 

沙知は小さなアパートに引っ越したばかりだ。最近アルバイトを始めたカフェに通っていた常連さんが住んでいた部屋。田舎に戻る事になったその人から引き継いだ部屋は、風通しが良く一人つましい生活をする沙知にはとてもしっくりくる空間になった。開け放した玄関から入ってくる友人や知人はこの部屋に新しい風を運んで来るが、沙知の心に住んでいるかつての恋人の面影が吹き飛ばされることはない。ただ、そこにずっといる。

 

愛する人を失った喪失感を沙知は抱えているけれど、それは日常の時間に溶け込んでいく。生きることは息をする事なんだ、と思う。人に寄り添い、寄り添われて、時と共に重ねる息遣いが、それぞれの音色を奏でていく。風が通るように悲しみや喜びは濾過されて形を変えて出ていくものなのだ、とも思う。沙知の心をただ見守り、距離感を持って見つめるカメラの優しさに安堵しながら、それが自分の中の仕舞い込んだ感情と呼応している事にも気付かされる。 春から夏へ、秋から冬へ、季節は巡り時間が詰み重なることで変化していくのは自分も、人も、思い出も同じなのかもしれない。ただ日常を過ごすことは、一転して、確かな前進であり変化なのだろう。

 

〈転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー〉

歌人・東直子さんの歌集「春原さんのリコーダー」(ちくま文庫)に収められたこの表題歌が原作だという。人と人が触れ合った時間の証はどんな形であれ刻まれるのだと、杉田協士監督は今回も和やかに伝えてくれる。

(志尾睦子)

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