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Monthly Column

ーここではないどこかへー

『花と雨』 上映:5月23日(土)〜 6月5日(金)

2019年 日本 1時間54分監督:土屋貴史出演:笠松将/大西礼芳/岡本智礼/中村織央

海岸沿いの広い公道を一台の車が走る。おそらく明け方だ。波打つ大きな海、そしてどこまでも横に美しく広がる空。そして車は止まる。上空から追いかけてきたカメラは車の中の青年の顔を映し出す。雨が降り始める中、彼は誰かを待っている。 胸をすくような光景から始まる世界は、一転とても小さな狭い空間に観客を押し込めていく。

 

主人公吉田は、幼少期をロンドンで過ごした帰国子女。父親の仕事の都合で高校生の時に日本に戻ってきた。保守的な日本、高校生活には全く馴染めず、同級生とも反りが合わない。唯一の心の拠り所は音楽だけだ。ヒップホップに明け暮れるようになった吉田は、そこで仲間も出来、ようやく居場所を見つけることができる。一方で、町の悪い連中とつるむようにもなり、小遣い稼ぎで麻薬の売人を始める。どんどんその深みにはまっていく吉田。悪いことを悪いとも思わない感覚で、ズブズブと閉塞した社会に呑み込まれていく若者像が浮かび上がる。 若者たちの良心を繋ぎ止める唯一の力は、ヒップホップだ。音楽と、言葉に彼らは想いを乗せていくが、だからと言って現実は勝手にいい方に転がってはくれないものだ。そのやるせなさが、低音で一定のリズムを刻むように描きこまれていく。 原案は、ヒップホップ界のレジェンドと言われるSEEDAのアルバム「花と雨」。楽曲に詰め込まれた人間模様が、映像という世界で組み上げられていく。丁寧に繊細に、というよりは突起物が多くザラザラとした引っ掛かりを多くちりばめた映画だ。だからと言って、並べ立てるだけではない。まるで、筆圧の高い文字で何度も重ねて書き連ねていく詩のように、描きこんでいこうとする。若者の苦しい現実を、歪んだ社会が生み出した人間の渦を。

 

年齢を重ねながらも吉田はどこか幼いままだ。ここには自分の居場所がないと悟り、海外で活躍することを夢見る姉と比べても、吉田がそっと手の中にしまう想いは、夢というには、おぼろげで弱すぎるのだ。だから世の中や社会に呑み込まれてしまうのかもしれない。厳しい現実社会に立ち向かい、そこを静観しながらじっと息を飲むように立とうとする姉、ただ真摯に音楽に没頭する吉田の友人との対比が、人間的成長の機微をよりリアルに浮かび上がらせていく。 息苦しさから解放された時、見える景色はどこまでも広い。若者の成長譚がここにはあった。いつでもきっと行けるのだ。ここではないどこかへ。

(志尾睦子)

 

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