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Monthly Column

ー物語ることで事実を語らず、語らぬことで真実を語るー

『ドライブ・マイ・カー』 上映:1月1日(金)〜 終了未定

幼い頃、強く胸にとどまった言葉がある。文脈は忘れてしまったが、会話の中でふと出てきたその言葉に小さな胸がトクンと反応したのを覚えている。「沈黙は金」という短くも猛々しい言葉は、私の人生のキーワードになった。無論その時折で、様々な解釈が生まれるわけだが、沈黙つまり語らぬことが、金という価値あるものをただ生み出すわけではないことを、年を重ねれば重ねるほどにわかってくるような気もしている。

 

『ドライブ・マイ・カー』の登場人物が、にこやかにこの言葉を発した時、私の人生が、スルッと映画の世界に滑り込んでしまった。誰それの、ではない人生を包括する力が映画にはあるわけで、つまりはこういうことを普遍性と呼ぶのではないかと思ったりする。普遍的なテーマを、劇的要素を使いながら、ごく自然に描きこんでしまう、濱口竜介監督の手腕がまたしても光っていた。

 

主人公の家福悠介は演出家で、妻の音は脚本家。夫婦は見晴らしのいいマンションで、品のいい家具に囲まれた静かで潤いのある生活を送っている。音の脚本の構想は、主に悠介と体を合わせるときに降りてくる。湧き上がる言葉をつらつらと発する音の物語を再度紡ぎあげるのは悠介だ。そうやって二人三脚でやってきた夫婦の時間は、幸せに満ちている。それが、ある時を境に幻だったのかと思えてしまう。何が現実で何が虚構なのか。と、画面が迫る。

 

悠介と音の時間が第一章なら、その2年後の広島の時間が第二章だ。悠介は芸術祭の審査員としてこの地に呼ばれ、ひと月ほどかけて舞台を作り上げることになる。ここで出会うのがみさきだ。5年前に北海道から広島に流れてきたという彼女は、ドライバーとしてこの地で生きている。市内の稽古地から宿泊地まで1時間ほどの道のりを、みさきは運転する。自車で広島までやってきた悠介は、主催者の意向という理由でプライベート空間を赤の他人に明け渡すことになるわけだが、この時間こそが、彼らの人生を邂逅させ、自己に向き合わせる。そして未来へと第三章が続いていく。

 

鍵は「語り」にある。事柄は多出し混み合っていくに見えるが、過去と今を繋ぐ回廊は風が吹き抜けるように作られている。語りは風なのかもしれないとふと思う。「ゴドーを待ちながら」も「ワーニャ伯父さん」も、そして多言語劇もまた、物語の深部を歩掘り進める装置になる。映画にしかなしえない語り口を、濱口監督はまたさらりとしてしまったようだ。          

(志尾睦子)

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