印刷用ページを開く

印刷用ページを開く

Monthly Column

ー光の先にある部屋、部屋の向こうにある光ー

『劇場』 上映:8月1日(土)〜 8月13日(木)

2020年 日本 2時間16分監督:行定勲出演:山﨑賢人/松岡茉優/寛一郎/伊藤沙莉

私の住む家は小高い丘の上にある。2階の自室から外を見やると、視線を遮るものがなく数キロメートル離れた小さな山の麓にある団地が視界に入る。中学生の頃、夕方何気なくいつもの景色をぼんやり眺めていると、団地の窓にあかりがポツポツとつき始めた。薄暗くなっていく空の中、広がっていく明かりに、私は目が離せなくなった。あの窓一つ一つに人生があり、それぞれが主人公の物語があるんだ、と不意に思った。窓の光の先に、色濃い人生があるという生生しさは、自宅のテレビ画面に映し出されていくイメージにつながった。私が一生見ることのない人々のドラマが、それでも無限に展開されていくのだという事実に、思春期の心が反応したことを思い出す。

 

周辺の読書仲間が絶賛した又吉直樹の小説「劇場」を私はしばらく手に取れなかった。ひと組の男女の人生を「劇場」と冠したタイトルにかつての記憶が呼び覚まされ近づく事を躊躇させたのかもしれない。そうしているうちに行定勲監督の手によって映画化が決まった。「劇場」はきっと劇薬になる、そんな気がして今度は手を伸ばさないではいられなかった。

 

演劇に心酔し、その世界に没頭する青年・永田は、ある日突如として恋に落ちる。その相手、同じ靴を履く可憐な女子学生沙希もまた、女優になる事を夢見ていた。彼らは互いに心を預け必要とし愛を育むが、永田は自分の夢を貪るように追い、沙希は自分の夢を永田に重ねるようになる。苛立ちを隠さず、周囲との空回りも厭わず、理想と現実の狭間に自ら落ち込んでいく永田は痛々しいというよりも哀しさに充ちている。一瞬視点をそらせば世界が違って見えるはずなのに、彼は見ようとしない。沙希の才能は、永田を勇者たらしめる剣だというのに、彼はそれさえも自らを脅かす武器だと捨ててしまう。永田は沙希の愛に包まれる事でしか自分を保てないことに気づき、独りよがりを貫こうとする。そして、沙希のあたたかくふかふかの愛は、いつしか邪に呑み込まれていく。

 

ここで描かれるのは特別な恋愛や過度な苦悩ではない。人が織りなす人生の一つを、丁寧に掬いとるだけだ。二人を取り巻く空気や温度、それぞれのその時々の距離感、世界の色や肌艶までもが、心の機微に寄り添う。彼らの姿に胸が軋む思いに駆られる人は少なくないだろう。眠っていた心の傷に触れる時、人は治癒できるのかもしれない。彼らの人生はこれからどう進んでいくのか。見届けたい衝動に駆られた。

(志尾睦子)

Ad information