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Monthly Column

ー「やさしく自然治癒力を高める逸品」ー

『嵐電』 上映:9月21日(土)〜 10月4日(金)

2019年 日本 1時間54分監督:鈴木卓爾出演:井浦新/大西礼芳/安部聡子/金井浩人

私の住む街に路面電車はない。だからか、路面電車のある街に行くとなんだか胸が疼く。見慣れない風景に対するちょっとした楽しさと少しの惑いがあるからかもしれない。それは今いる自分が、その路面電車のある風景に馴染まない異種であると認識することにもつながる。無論それは卑屈な言い回しではなく、少しだけ襟を正す感覚に近い。今は馴染まないからこそ、その土地に敬意を払い仲間に入れてもらう意識にも近い。そうした自分の土地にないものに会った時の感覚は他にもいくつか浮かぶが、路面電車はとりわけその感覚をダイレクトに感じる一つだ。街中を縦横無尽に走るからか、車が走る道路を併走するからか。交通機関としての鉄道を超えた格別な何かを感じる。何れにしても土地のモノとしての当たり前の風景が、私の知らない土地勘を連れてくると言ったところだろうか。 『嵐電』は、京都の街中を走る路面電車の愛称をタイトルに持つ。嵐電を舞台にした、というよりは、嵐電が様々な人間模様を連れてくる話だ。駅と駅の間で人は想いを育てそして駅に降り立つ。またある時は駅周辺で物事を拾い集め、想いを振るい、そして乗り込む。撮影所近くのカフェで働く地元民・嘉子と、東京から撮影でやってきた俳優の譜雨は嵐電の中で出会う。青森から修学旅行でやってきた女子高校生・南天が、地元の高校生で8mmカメラを片時も離さない子午線に出会うのは、嵐電が走る駅周辺だった。鎌倉からやってきたノンフィクション作家の衛星は、嵐電沿線にアパートを借りそこで次作の執筆にあたるが、彼はここで妻との思い出にも出会う。それぞれの出会いの物語が嵐電に乗ってやってくる。そこに住む者の土着的生活感と、そこにやって来た者との異質感が明確に立ち現れ、それは緩やかに融合していく。彼らのアンバランスを吸収していくのが嵐電だ。電車が走り回れば人間の感情も動き、行きつ戻りつする電車のダイヤは、やがてどこかの世界とも通じてしまうのである。その妙が実に愉快で切なくて愛おしく映る。 そこに住まうのか、そこを訪れるのかの違いはあれど、どちら側にとってもその土地には人を癒す何かがあるのだとふと思う。さりげなく映し出されたロケ地の看板に、行き交うその土地の人の歩く姿に、そしていつものように走る嵐電に、私はいつの間にか癒されていた。なんともまた不思議で愛おしい映画ができたものだ。(志尾睦子)

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