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Monthly Column

ー密やかでいて雄弁ー

『スパイの妻』 上映:10月16日(金)〜 11月20日(金)

2020年 日本 1時間55分監督:黒沢清出演:蒼井優/高橋一生/東出昌大/坂東龍汰

「カーテンが揺れるだけで怖い。」事あるごとに黒沢清監督作品を説明する際に私が使って来たのがこの言葉だ。全ての映画にカーテンが出てくるということではない。例えなのだが、自分ではこれをとても気に入っている。翻って揺れなくても怖いのであった。前後のストーリーが引き出す怖さではない。ただそこにある物体が、画面の中で一瞬にして温度を下げるような、そんな感覚。そこに殺人事件がなかろうと、幽霊が出てこなかろうと、日常に潜む不穏さや恐怖が画面に映った時、ハッとする。もはやこれはホラーだからとか、サスペンスだからという枠を超えたものだ。怖さの正体がなんであるのか、怖さの先にあるものが何なのか。抽象的な感覚を、映像で具現化して見せる演出が、この「カーテンが揺れるだけで怖い」で表現できる事に驚きもする。そして重要なことは、そこに人間とは一体何者なのかという問いが、常に私たちの背中を追いかけて来ることなのだとも思う。

 

ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞に輝いたという一報は嬉しい知らせであると同時に、正直驚きはしなかった。唯一無二の映画監督に対する正当な評価だからだ。そして『スパイの妻』は、新しい地平へと踏み出す強靭な映画であることも疑いようがなかった。

 

第一次世界大戦を終え新しい時代が開かれたのも束の間、次なる戦争がひたひたと歩み寄ってきた1940年頃。まさしくこれからの時代に飛び出すべく貿易会社を営む優作は、自身をコスモポリタンと称し、世界的な視野を保とうとする。時代のうねりに巻き込まれてはいても、そんな夫の愛と財に守られて生活する妻・聡子は、慎ましく幸せな日々を大切に過ごしていた。それが、ある出来事を境に変化していく。物資を調達に出向いた満州で、国家機密を目撃してしまった優作は、良心に従いその真実を世界に暴く為準備を始める。しかし、聡子にそれは知らされない。夫に隠し事をされる妻の不安と恐怖がシミのように広がる様は、息が詰まるほどに苦しく映る。ついに夫の計画を知った妻は、夫への愛と忠誠を糧に時代の荒波に飛び込んでいく。 聡子は自らを、裕福な社長夫人からスパイの妻に切り替える。そして手に入れるものは正義か、愛か、はたまた狂気か。秀逸な脚本と緻密な構成、役者陣の鬼気迫る名演は言わずもがなだが、黒沢監督の演出によって、密やかに雄弁に語られる人間の性に圧倒される。そして最後に言いたくなるのはこの言葉しかない。「お見事です」と。

(志尾睦子)

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